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サブカルチャー/オルタナティブ

 サブカルチャーやオルタナティブとは言っても、大げさな文化論ではありません。まあ、「少数意見」とでも考えて下さい。徒然に考えたことをただ書き連ねたエッセイです。反論はしないように、切にお願い申し上げます(笑)。読んで不愉快になる方もいるかもしれませんが、ご容赦を…


■フランス兄弟社   2001/11/26

 アイデンティティとかレーゾンデートルとかいう言葉がありますね。まあ、どっちもなんとなく理屈っぽい感じで好きな言葉ではありませんが…。いずれにしても、人間は社会的な動物ですから、社会における自分の存在意義みたいなものを考えたくなります。
 世の中には2つのタイプの人間がいると思います。1つは自分の存在意義を自分自身に求める人間、もう1つは自分の存在意義を自分が所属している集団やコミュニティに求める人間です。後者で言うところのコミュニティには、家族、地域社会、学校、会社など、様々なものがあります。
 自分が所属しているコミュニティや集団に自己の存在の証を求める人間は、同じ価値観を持つ人間の存在にこだわりを持ちます。同じ価値観を持つ集団の中で生きていくことが、心地よいというか安心できるタイプでしょう。それに較べて、自分の存在意義を自分自身に求める人間、すなわち自分自身のあり方を社会と切り離して考える人間は、他人との価値観の差を気にしません。
 私は後者なので、他人の価値観に興味がないし、他人との価値観の違いなんて考えたことがありません。周囲の人間が異なる価値観を持っていた方が落ち着きます。同じ価値観をもつ集団の中にいると落ち着くどころか、かえって落ち着かないですね。みんなが同じことを考えている集団というのは、その個性単位が大きかろうが小さかろうが、かえって気持ちが悪いのです。それは家族であっても、会社であっても、国家という大きな単位であろうと同じです。

 話は飛びますが、「フランス兄弟社」という、割とお気に入りのサイトがあります。要するに「フランス人にあこがれているがフランス人にはなれない人」のためのサイトです。で、アメリカという国が好きな私は「アメリカ兄弟社」を作りたいと大真面目で考えているわけです。
 アメリカが好き、アメリカ人になりたい…ってのも、考えてみれば実にミーハーな話ですね。私はアメリカに住んでいたことがありますし、アメリカのグリーンカードを取得するのは別に不可能な話ではなく(抽選もありますよね)、移民社会であるアメリカ人ってのはなろうと思えば誰でもなれるって部分があります。でも、仕事とか家族を含む様々なしがらみとか考えると、そう簡単にアメリカ人になるわけにもいかず、今日に至っているわけです。だから、「フランス人になりたいけどなれない人」が集まる「フランス兄弟社」のメンタリティはよく理解できるのです

 アメリカという国が好きな理由はいちいち挙げるとキリがありませんが、ひとことで言うと「日本的ではないから」というのが最大の理由です。じゃどこが日本的ではないのかと言えば、これまたひとことで言うと「多様性」という言葉につきます。
 日本に暮らして○○年、私はこの国を「多様性に欠ける」国だと考えています。まず日本という国に住んでいる人全体に価値観の差が小さい。学校、会社、家族などいろいろな社会構成単位で見ても、それぞれ価値観が良く似た人の集まりであることが多いですね。私は同じ価値観を持つ人が、互いの価値観に基づく規範に準じて生活する…こういう感覚が、すごく苦手です。でも、日本という国はわりとこの「共通の価値観基づく規範」に準じて生活することを強いられる部分があります。いや、別に規範から外れてもいいのだけれど、そうすると広範な社会性を保つのが難しいじゃないですか。加えて、個人の趣味・嗜好からファッションに至るまで、右へ倣えって感じの人が多い。サラリーマンの格好は勤務先を問わず見事に同じだし、渋谷を歩いている若い世代のファッションも、みんなよく似ています。J-POPなんか、見事に同じ傾向の曲ばかりが流行る。ともかく、そんなこんなで日本という国があまり好きではない、というか居心地が悪いわけです。
 こういう言い方をすると「あんたは日本が好きではないのか?」とか言われそうですし、昨今流行の「ゴー宣」読者の方などからは「非国民」と言われそうですね。でもはっきりと書いておきましょう。「ハイ、私は日本という国が好きではありません。日本という国に生まれた事を別に誇りになんて思っていません」

 さらに私は、日本もなにも、国や郷土を愛する気持ちなんてものはこれっぽちもないのです。おそらく私は、地球上のどこの国に生まれていても、国や郷土を愛する気持ちなんて持たなかったでしょう。第一、何故「自分の生まれた国に誇りを持たなければいけない」のでしょうか?私が日本という国に生まれ、日本という国の国籍を持つに至ったのは、ある意味で全くの偶然です。私は、自分の意志で日本に生まれたわけではありません。両親がたまたま日本に住んでいただけの話です。私は「国」という抽象的な概念に対して愛や誇りを持つことができません。そして実体としての「国」(権力構造とでも統治機構とでもどう捉えてもらっても構わないのですが…)に対しても、別に愛や誇りを持つことができません。
 むろん、日本という国の気候風土や食べ物、四季の風景、そして一部の日本文化(特に日本語文化)については、人一倍愛しています。それが日本に住んでいる、主たる理由です。だから日本という国に誇りを持てないヤツは、どっかの国に出て行け…と言われても困るのです(そんなこと言われる筋合いはないですが…)。ともかく、風土も食べ物も大好きなのですから。でも、総じて日本人のメンタリティは好きではありません。これってけっこう普通じゃないんでしょうか?

 はてさて、アメリカという国の持つ「多様性」が好きだと書きましたが、9月11日の同時テロ事件以降、そのアメリカのアメリカたる所以である「多様性」が危機に瀕しているようです。アメリカは、テロ報復に反対する声を上げにくくなっているようですね。特にマスコミの偏向ぶりが目につきます。そんな中でも、各地で報復戦争反対のデモが行われたり、バークレー市議会がアフガニスタン攻撃反対の決議をしたり、「健全な多様性」はかろうじて維持されているというところでしょうか…。私の好きな「多様性を持つ社会」が、また1つ地球上からなくならないように、切に祈ります。


■千と千尋の物語   2001/11/18

 映画「千と千尋の物語」が、「タイタニック」の持つ興業収入記録を塗り替えたそうですね。で、ちょっと驚いたのですが周囲の人間でも見に行った人が多いんです。これは子供じゃなく大人の話です。
 こんな話を書くと宮崎アニメファンから抗議が来そうなんですけど、はっきりと書いちゃいます。私は宮崎駿のアニメって大嫌いです。もっと正確に言うと、嫌いというよりも「気持が悪い」って感じかなぁ。それも「背筋がぞくぞくする」ほど気持悪いのです。
 アニメとは言っても、宮崎作品が手間と暇をかけ、高度な技術を駆使して作られている高い水準を持った映像作品であることは十分に理解しています。でも、まずは宮崎アニメの根底に流れる「ヒューマニズム」みたいなものが、生理的に肌に合わないですね。人間の社会の問題、人の心の問題、優しさとか憎しみなどの感情を、あんな形で表現されたくないって感じかなぁ。一言でいうと「安っぽいヒューマニズム」を押し付けられている感覚があります。
 それと、この手の主題をここまできちっとした作品として作り込んで、多くの大衆(あえて大衆という表現を使います)に受け入れられる形に仕上げられると、これはもう立派なプロパガンダですね。こうした作品を狙い通りにたくさんの人が見て、同じような感想を抱くっていうのは、ちょっと怖い感じがします。宮崎アニメは何となくある種の「宗教」っぽい…と誰かが言っていましたが、同感です。いまや、宮崎アニメ自体が新興宗教的な存在になりつつあるかもしれません。ともかく、感性領域で判断すべき主題を、たくさんの人が同時に支持するなんて現象は、「多様な感性の集合体であるべき本来の人間社会のありよう」と反するような気もします。この手の作品に関しては、本来もっと様々な受け止め方があるべき…って思いますね。
 大人が「宮崎作品に感動した」なんて言ってるのを聞くと、「お前、感受性が鈍いんちゃう?」とチャチャを入れたくなります(ゴメンナサイ…)。
 似たようなことは「ハリーポッターと賢者の石」にも言えます。こちらは安っぽいヒューマニズムではなく、「安っぽい人生訓」を垂れられている感じ。しかも、幼稚な表現で…。映画化されてたくさんの大人が見に行き、同じように感動したり感銘を受けたりすると思うと、やっぱり気持悪いですね。
 でも、「ハリーポッターと賢者の石」は世界中で1億部も売れたんですよね。何故こんなに、「感性の画一化」とか「物事の受け止め方の画一化」が進んだのでしょう。こういう多様性がなくなりつつある世の中って、マズいんじゃないのかなぁ。

■前に倣え   2001/11/4

 今日友人と話していたら、小中学校時代の「前に習え(倣え?)」「休め」という号令の話になりました。今考えると実に妙なものだった…ということで話が一致をみました。
 他に「右に習え」だの「小さく前に習え」だの、いろいろな号令がありました。号令に合わせて、子供がいっせいに整列したり、方向を変えたりするのです。考えてみると妙なことをやっていましたよね。

 知人のフランス人の女性の話によると、小学生がこうした一糸乱れぬ行動を学校で強要されているのは、すごく異様な光景だそうです。どう見ても軍隊の行動にしか見えず、こんなことを小学校でやっている国は、少なくともヨーロッパでは見たことがないそうです。
 なぜ、教育現場でこんな軍隊のような振る舞いを教え込まなければならないのでしょうか?
 考えてみれば、ヨーロッパの多くの国には徴兵制度があります。ちょうど徴兵されているタイミングで、湾岸戦争やコソボ紛争のような国際派兵をする紛争に出くわすと、彼らは戦争に行かなければならない。そうした「戦争をする軍隊の必要性」を大人も子供も認識している国の人から見て、日本の小中学校の軍隊的な振る舞いは異様に見えるわけです。
 要するに、一言で言えば、学校は軍隊ではないし、軍事教育を学校でやる必要はないという話に尽きます。
 ここでは、軍隊の必要性とか、憲法九条の是非とか、そんな問題を論じる気はありません。そうではなく、小学校教育で軍隊のような行動様式を教えることの必要性について考えてみたいのです。
 いや、考えるまでもありません。軍隊というのは、一般的な意味での「日常」とは異なる集団です。目的はともかく、効率よく戦闘行為、殺人行為を遂行するための組織です。こうした特殊な目的を持つ集団のルールは、こうした集団の中で教えればよいだけだと思います。「学校」という場で教える必要はありません。

 ところで、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)は何かイベントがある度に巨大なマスゲームをやります。あれって異様な光景ですよね。日本の小学生がやる「前に習え」「休め」も同じように異様であることに、どれだけ多くの人が気付いているのでしょうか?
 そういえば、日本人も北朝鮮と同じようにマスゲームが好きですね。幼稚園や小学校の運動会では、ほぼ100%マスゲームをやります。集団で一糸乱れぬダンスをしたりするのも好きですよね。つまり、日本人は「集団で一糸乱れぬ行動をとる」ことが好きな国民性なのでしょうか? 私は大嫌いです。

■修学旅行   2001/9/28

 今日用事があって池袋の「サンシャインシティ」に行きましたが、そこで修学旅行の中学生の集団に会いました。男子生徒が「○○中」という帽子を被っていたので、岩手県から来た中学生の一行だということがわかりました。
 制服を着た百人以上の中学生がぞろぞろ歩いている姿は、なんだか物悲しい光景でした。

 私は本音の部分で、修学旅行の意味も楽しさもよく理解できません。教師に引率され、制服を着て、どこかの観光地を集団でぞろぞろ歩くことが、何か教育的な意味を持つのでしょうか? 教育的な意味なんて、どうこじつけても思い浮かびません。お金と時間の無駄以外の何ものでもありません。また、旅行している生徒の方は楽しいのでしょうか? 自分の経験に照らし合わせても、楽しかったのは小学校の修学旅行まででした。
 百歩譲って、世間一般には修学旅行を楽しみにしている生徒がいるとしましょう。だから教育的な意味は無くとも、集団レジャーとして実施すべきだとの意見もあるかもしれません。例えそうであっても、修学旅行はせいぜい小学生までにすべきですね。中・高校生の修学旅行なんてのは、さすがにやめてもらいたいです。
 高校生にもなって修学旅行が楽しいなんて人間を私は信じられません。友人と旅行に行くことは非常に楽しい…それはわかります。高校時代に友人とキャンプをしながら山歩きをしたのは、今でも楽しい思い出です。
 友人と旅行がしたいのであれば、気の合う友人同士が自分達で計画を立てて、好きなところに行くのが普通でしょう。学年全員が、学校が決めたスケジュールで、先生が引率するような旅行が面白いと思う高校生がいるとすれば、自主性がない以前に、どこかおかしいとすら思います。

 うがった見方ですが、修学旅行という制度が、パッケージツアーでぞろぞろと海外の観光地を歩く日本人の大人の集団を作り出したのかもしれません。
 旅行というのは行く先を決め、予算を決め、移動手段や宿泊場所を自分で決めて手配するから面白いわけです。修学旅行は、教育的な意味合いから見て、意識して若い世代の主体性を奪うためにやっているようなものです。

 もう1点、制服を着た集団っていうのは「美しくない」ですね。はっきり言って不気味ですらあります。学校内や通学時の制服着用はともかく、大衆の前を制服を着て集団で歩くなんて、まるで軍隊のようです。

 ついでに、大手旅行代理店に勤務している友人の話によると、修学旅行は旅行代理店の大きな収入源なのだそうです。また、先生の方はすごくうれしいらしい…とのこと。特に就学旅行の下見で数人の先生が公費で行く旅行は、必ず飲めや歌えやのドンチャン騒ぎになるとのことです。バックマージン代わりに、格安の下見・接待旅行をセットする代理店も多いとか…、フザけた話です。

 修学旅行だけでなく、実のところは「運動会」とか「遠足」とか、いわゆる「教育現場にで集団で行うレクリエーション」一切を廃止すべきだと考えています。ましてや社会人になってから「社員旅行」や「職場の運動会」などをやられては、正直言ってたまりません。
 私は自宅が豊島園という遊園地の近くにありますが、ここには貸しグランドがいくつかあります。秋になると日曜日はいつも企業の運動会で全てにグランドが埋まってしまうようです。まあ、会社が運動会を主催するのは勝手だけど、そんなものに参加する方がおかしいんでしょうね。
 いや、こういうことを「おかしい」と言ってはいけませんね。人の生き方や価値観は様々ですから、自分の考えを押し付けたり他人を非難するのはよくないことです…
 訂正して、言い直しましょう。「高校生にもなって修学旅行が楽しいと思っている若者や、企業主催の運動会に参加するような大人は、私とはライフスタイルや価値観が違います」


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