ここはオルタナティブ・デジカメサイト。デジカメとMPEG-4動画の話、サブカル系の駄文コンテンツをどうぞ…
HOME

日記過去ログ
 ◆9/1〜9/30日分
 ◆8/1〜8/31日分
 ◆7/1〜7/31日分
 ◆6/1〜6/30日分
 ◆5/1〜5/31日分
 ◆4/1〜4/30日分
 ◆2/21〜3/30日分
 ◆1/21〜2/20日分
 ◆12/25〜1/20日分

 ◆11/20〜12/24日分
 ◆10/22〜11/19日分
 ◆9/20〜10/21日分
 ◆8/20〜9/19日分
 ◆7/20〜8/19日分
 ◆6/19〜7/19日分
 ◆5/23〜6/18日分
 ◆4/19〜5/22日分
 ◆3/18〜4/18日分
 ◆2/13〜3/16日分

WS30 & SLIM
 ◆WS30の魅力
 ◆VGAカメラで遊ぶ
 ◆WS30の使用感
 ◆WS30 SLIMの特徴
 ◆WS30の画質
 ◆WS30の動画
 ◆WS30マクロ撮影
 ◆WS30購入の前に!
Digital Camera
 ◆デジカメ購入指南
 ◆デジカメ遍歴
MPEG-4
 ◆MPEG-4動画で遊ぶ
 ◆MPEG-4の魅力
 ◆VN-EZ5で遊ぶ
 ◆VN-EZ5で遊ぶ 2
 ◆VN-EZ3で遊ぶ
 eggyで遊ぶ
 eggyで遊ぶ 2
 eggyで遊ぶ 3
 D-snapの使用感
 D-snapの画質
 ◆携帯でMPEG-4
 ◆MPEG-4勉強部屋
Diary & BBS
 私的画像日記
 ◆動画・静止画 掲示板
 ◆意見交換 掲示板
 ◆About Me
 ◆Link
 ◆Mail


画像日記   〜都会に暮らすサイレント・マイノリティの発言


2002/10/31

 今日もコンテンツを追加しました。
 動画デジカメとしての「A5301T」…です。
 果たして「携帯電話がデジカメを駆逐する日」が来るのでしょうか?

2002/10/30

 カゼが治りません。扁桃腺が腫れて、微熱が続いています。不愉快な気分ですが、仕事を休むわけにはいきません。…悲しい…

 ところで、最近日記以外のコンテンツを更新していなかったので、今日はいくつか新コンテンツを追加しました。
 「小型デジカメ原理主義宣言!」と「小型デジカメ原理主義宣言 その2」…の2つの文です。いずれも。従来の主張を確認したもので、冗談半分ですので反論は一切受け付けません(笑)
 また、日記に書いた文に加筆したコンテンツ「CCDのチップサイズは小さい方がいい!」と「デジタル一眼レフについて考える」も増やしました。
 それにしても、どうでもいいような「駄文」が増え続けます。我ながら、自分の「饒筆」には呆れています…

2002/10/29

 「タブレットPC」が話題です。次々と新製品が発表されていますが、いったい誰がどんな用途で使うのでしょうか?
 Microsoftは「発売1年後には100万台の普及を目指したい」…と言っているそうですが、絶対に売れないと断言しておきます。

 まあ、ユーザーインタフェースの話になると、昔から決まって出てくるのが「音声入力」や「手書き文字入力」です。パソコンはキーボード入力を採用している限り「誰でも使えるツール」にはならない…と、極端なことを言う評論家などもいます。音声入力や手書き文字入力はヒューマンインタフェースの代表…のように言われることが多いですね。

 しかし、考えてみれば音声入力や手書き文字入力ほど不合理な入力方法はありません。まず第一に、入力速度の問題です。手書き文字入力は、どんなに頑張っても人間が手で書く速度以上のスピードでは入力できません。変換キーに相当する操作の分も加えると、習熟したキーボード入力よりもかなり遅くなるでしょう。私はもう、手書きなんてカッタルイ方法で入力はできません。
 次に「誤入力」時のリジェクト方法の問題です。手書き入力でも音声入力でも、必ず頻繁に「誤入力」が生じます。頭の中だけで完璧に論理的な文章を作り、それを一字一句間違いなく口述できる人間なんて絶対にいません。例えば誤入力時の訂正のためのオペレートを音声入力だけでやろうと思えば、えらく面倒な手順を踏むことになるでしょう。結局キーボードを併用せざるを得ないはずです。いずれにしても、「キーボード入力」という範囲での方法による優劣はあるでしょうが、パソコンやOA機器の入力方法として音声入力や手書き文字入力が一般化することはあり得ません。

 で、タブレットPCの話題に戻りますが、マジメな話、用途がわかりません。営業マンなんかが持つ専用入力端末的な使い方をするとか、特定目的の専用端末としては多少の使い途はあるかもしれませんが、別にタブレットOCでなくても実現できそうなものばかりです。
 こんなコメントを読むと、提案した側も具体的な用途を模索している段階のようですね。遊び用途でも使い途はなさそうです。「手書きメールの交換が出来る」…なんて、アホらしい。

 それにしても、パソコンという情報処理機器は、意外と将来像が見えません。本体の小型化、処理の高速化、モニタの高解像度化…のようなオーソドックスな進化は続けるのでしょうが、だからと言って、現行の商品形態と著しく違う形を想像できません。いくら小さくなったとしても、入力のためのキーボードと表示用のディスプレイが必要なことを考えると、形状のバリエーションには限界があります。ウェアラブルコンピュータなども提案されていますが、例えば高解像度のヘッドアップディスプレイのようなものが安価に実用化されても、やはり部屋で使う時には液晶のようなフラットパネルディスプレイの方が使い勝手がよさそうです。
 結局10年後のパソコンも、現在のパソコンと同じような姿をしているのでしょうね。

 TVのニュースで、「ハリーポッター」の新刊発売日に大人が開店前から書店に列を作って並んでいるのを見て、薄ら寒い感じを覚えました。ここのところ私は何度も、「大人向けの童話」が次々とベストセラーになる状況に対する疑問や「大人が童話を読む」ことへの苦言を述べてきました。そんな状況の中でも、ハリポタのブームは極め付けのくだらない現象です。ハリポタは、あまりにブームなので、書店で前作を15分ほどパラパラと立ち読みしました(15分でほぼ読了しました)。内容は「子供向け」以外の何物でもなく、こんな内容で「勇気づけられたり」「感動したり」する大人はきっと「感性が鈍い」のでしょう。
 いつも嘆いていることですが、日本人の多くはいったいなぜこんなに「幼稚」になってしまったのだろう?
 携帯電話もそうです。私が使っているドコモ「N511i」には、デフォルトで「クマのプーさん」のキャラクターが設定されています。購入すると待ち受け画面にプーさんが設定されているのには、参りました。最近使い始めたauの「A5301T」も同じです。デフォルト画面ででミッキーマウスが踊っています。小学生じゃあるまいし、こんなものを喜ぶ大人がいるのが不思議です。携帯電話なんて、私のようにビジネスの道具として使っている人の方が多いはず。メーカーも幼稚な商品ばかりコンセプトしていないで、シンプルでまともな端末を作って欲しいものですね。

2002/10/28

 珍しく自分のオフィスの仕事の話です。ここのところWebサイトの構築関連の仕事がいくつか入っています。まあ、Webサイト絡みの仕事は常時入っているのですが、だいたいはデータベース系のサイトのサーバー構築の仕事が多く、MySQL+PHP4なんて作業が多いわけです。今回は珍しくデザイン主体の仕事です。
 私のオフィスでWebサイトの構築を依頼された場合、あまり「デザインに凝る」ということはありません。データベースを組み込んだB2Cサイトなどのばあい、ユーザーインタフェースを含めて機能面では徹底的にツメますが、デザインはいたってシンプルなものを使います。例えば、メニューだって出来る限りGIFを使わずテキストで行くし、GIFのボタン類も極力使わないようにします。つまり、「あくでシンプルで見やすく」が基本方針です。

 大手企業のWebサイトは、一頃はシンプルなサイトが主流でした。やはり、ユーザーのWebアクセス環境に差があることから「重いサイト」が敬遠され、大手企業のサイトなども、テキストベースのシンプルなサイトが多かったですね。ところが、最近になって「重いサイト」が復活しつつあります。これは、ブロードバンド環境が普及したことが前提になっています。ブロードバンドが普及したからガンガンFlashを使ってもOK…と思っているのは、どうも企業側でそう思っていることが理由ではなさそうです。
 「Webデザイン会社」を経営している友人でに効くと、受注金額を上げるために凝ったデザインをプレゼンするが基本…とのことです。まあ、最近はWeb制作なんて素人でも出来るし、データベースと複雑にリンクしたサイトを作るにはプログラム開発技術が必要となり、そうしたスキルはあまりない会社が多い。そうなると、デザインで凝るしか見積書の金額を上げる方法はないわけですね。で、クラインアンとに対して「最近はブロードバンドが普及したからFlashやCGをガンガン使いましょう」…というプレゼンをやるわけです。その結果、商品画像を三次元で見せてマウスでぐるぐる回すことができる…なんてのが流行るわけです。
 私のオフィスはWebデザインが本業ではないので、Webサイトの構築に関する料金と言うのは、基本的にプログラム開発料金に準じたものであり、デザイン部分であまりお金を取ることはありません。また、凝ったデザインを使わない…というのは、私の個人的好みの反映でもあります。
 個人的な好みで言えば、オープニングにFlashを使っているだけで、私はそのサイトを見る気がしません。いくらブロードバンド環境だからと言って、情報を見るために訪れるサイトで、ゴチャゴチャとしたアニメっぽい動画を見せられると、頭に来ます。デジカメメーカー各社のサイトを見ても、かなりうっとおしいのがありますね。どうしてもFlashとかを使いたいのでなら、せめてテキスト版を用意してください。
 次に私は、フレームが嫌いです。Googleの検索結果などから飛ぶと、フレーム部分しか出ないことが多く、サイトの全体像がわからないからです。従って、受注した仕事でも、フレームなしのページ構成で行くことが圧倒的に多いですね。
 以前は複雑なtableも嫌いでしたが、最近はブラウザの環境による見え方の差がほとんどなくなったこともあって、Tableはかなり使うようになりました。
 adobe「Go Live」やmacromedia「Dream Weaver」などのツールは、ラフなデザインをする段階では使うこともありますが、本番は基本的にタグを打ち込むようにしています。
   もっともこうした仕事で作るWebデザインの話と自分のサイトは全く無関係です。この「WS30の世界」というサイトはデザインには全く素人である私が個人的に作ったものであり、センスもクソっもあったものじゃないことはよく判っています。ただ、最近コンテンツがあまりにも増えたので、フレームを使ってシンプルなデザインで作り替えようか…とも思っていますが、いかんせん暇がありません。

 今日の画像は、私がよく行く池袋西口のラーメン店「味商人」の前に貼ってあったものです(A5301Tで撮影)。
 小さい画像で撮影したので、文字がよく読めないかもしれませんが、「味の研究のため10/26(土)は21時までの営業です」…と書いてありました。「味の研究のため」と言われると、文句も言えません(笑)。
 ところで、とうとうカゼをひいてしまいました。頭痛がするしノドも痛い。今日は夜遊びしないで早めに寝ることにします。

2002/10/25

 「無洗米」というヤツがブームです。「米のとぎ汁は環境汚染の最大要因の1つ」…なので、無洗米はエコロジーなんだそうです。スーパーへ行くと、いろいろな銘柄が山積みになっています。特にペットボトルに入っているヤツ、面白いですね。
 私は最初「ムセンマイ」という言葉を聞いた時、てっきり「無線米」かと思い、「無線」と「お米」の関係が想像できず、とても不思議でした(笑)

 現在、無洗米を使っています。環境に良いからでもないし、洗う手間が省けるからでもありません。今年の春、たまたま無洗米を購入し、そこに貼ってあった応募シールを送ったら「特上イクラ500g」に当選したからです。要するに、イクラが当ったから無洗米は好印象…というわけです。

2002/10/24

 何にでも興味を持ち、何にでも首を突っ込む私ですが、世の中でどれだけ騒がれても全く興味が沸かないジャンルもあります。
 まずは、興味のないものの代表が「格闘技」。K1とかPRIDEとかプロレスとか、どんな選手が参加しているかも知らないし、むろん観戦したこともありません。本当にケンカをしたら誰が強いのか?…みたいな話で盛り上がる人も見ますが、素手のケンカの強さや格闘技の強さなど、武器や兵器の前では無力です。ケンカに興味はありますが、肉体を鍛えることにも、他人の争いを見ることにも全く興味がありません。
 「ギャンブル」も全く興味がないものの1つです。競輪や競馬、そしてカジノ、パチンコ、宝くじなどにお金を賭けることの面白さがわかりません。数学的に見て少しでも「偶然」という要素が入るものに対して、真剣に下調べをする気にはなりません。お金は好きですが、ギャンブルをすることの面白さはさっぱりわからないのです。まあ、私の場合人生そのものがギャンブルみたいなものですけど…(笑)
 「F1レース」に代表されるモータースポーツ観戦ってヤツも、全く興味がないですね。なぜあんなに騒ぐのかよく判りません。かつてバイクの草レースには何度も出たことがありますが、自分が走るのなら他人が走っているのを見ても面白くもなんともありません。莫大な金を注ぎ込んで開発したレースカーで競争しているのを見ても、「人間」の存在がほとんど感じられないのです。
 「TVドラマ」や「TVのバラエティ番組」ってのも、いくら世間で騒がれても、そしてトレンドになっても、見ることはありません。トレンディタレントが出ているTVドラマなんてかったるくて見てられません。そんなもの見る時間があったら、ミステリーでも読んでます。あとTVタレントの誰それが結婚したとか離婚したとかいうゴシップにも興味なし…です。
 「風俗産業」にもまったく興味がないです。女性と遊ぶのは大好きですが「お金を出して遊ぶ」というメンタリティはよく理解できません。別に悪いと言ってるか非難しているとかじゃありませんが、自分は一生風俗に行かずに人生を終えそうです。
 そういえば、「政治」…これも興味がないものの1つです。誰が国会議員になろうと、どこの政党が政権を取ろうと、誰が汚職しようと知ったことじゃありません。日本という国が住みよくなろうが住みづらくなろうが、経済が破綻しようが…どうでもいいと思ってます。自分の生活に直接関わってくること…に関しては多少の感想はありますが、まあ、だからと言って何をするというわけでもありません。
 その他、興味のないものを羅列すると、「環境問題」、「近所付き合い」、「オカルト」、「宗教」、「童話」、「タレント本」など…、全く興味がわかないものはたくさんあります。
 環境問題なんかは、確かに地球環境が汚染されて生態系や次世代を担う子供たちに影響があっちゃまずいとは思いますが、「現在の人間の営み」も生態系の一部だと考えると、このまま地球環境が悪化することもまた「自然」だと考えています。無理に変えなくとも自然のままにして、その結果地球が生物の住めない惑星になったら、それはそれで受け入れればよいのでは…と思います。

 今日の画像は、池袋西口にある「蔵王」という喫茶店です(A5301Tで撮影)。
 ご存知の方もおられるかと思いますが、ここは「トースト/ゆで卵食べ放題」という喫茶店です。昔は、池袋にはもう1軒「南蛮」というトースト食べ放題の喫茶手があったのですが、現在は洒落たカフェになって、この「蔵王」だけが残りました。
 座っていると、空になったお皿にドサっとトーストを載せていきます。20代の頃、友人がどこまで食べられるか挑戦したことがあり、その時は半日かかって2つ切りのトーストを100枚近く食べたそうです。

2002/10/23

 ノーベル化学賞を受賞した島津製作所の田中耕一氏、彼を巡る報道にうんざりしています。はっきり言って不愉快です。別に田中耕一氏に含むところがあるわけでもなく、彼の業績にケチをつけるわけでもありません。第一、ケチをつけようにも彼の研究の内容について、私の頭では理解することも不可能です(笑)
 私が不愉快なのは、田中耕一氏がノーベル賞を受賞したことに対してではなく、受賞後の田中耕一氏の言動とそれに対するマスコミの過熱報道に対してです。
 田中耕一氏は、今や「平成の癒し系キャラクター」として日本中の喝采とマスコミの絶賛を浴びています。
 特に賞金や報奨金の使い途を聞かれて「10万円程度だったらデジカメ買うけど金額が大き過ぎて何に使っていいかわからない」「いきなり役員に昇進なんかしたくない。できれば現在のまま研究を続けたい」…、こうした態度が、自然体であるとか、お金に執着していないところが好感を持てるとか、非常に好意的に報道されています。
 さらに田中耕一氏は、「昇進を拒否してきたこと」「受賞を機の昇進についても消極的なこと」、何よりも「サラリーマンを続けること」を主張した点も好意的に報道され、ある意味でサラリーマンのヒーローになってしまいました。

 先日ラジオを聴いていたら、司会者が田中耕一氏についてこんなことを言っていました。「昨今、企業内研究者が多大な報酬を企業に要求するケースが相次いでいる中、お金に執着しない田中さんの態度はその人柄が偲ばれ、非常に好ましい…」と、コメントしたのです。これを聞いて私は、何かが違う…と感じました。
 この言い方では、企業内研究者が画期的な発明をして、それによって企業が莫大な利益を上げてそれを個人に還元しない…ことに対して「正当な権利」を主張するのはあたかも「強欲」で、田中氏の態度の方が「企業内研究者の、正しいあるべき姿」と言っているようです。そりゃヘンでしょう。
 朝日新聞のこの記事では、さすがに企業内発明者が個人の権利を主張することに異を唱えてはいませんし、それなりに問題点も指摘していますが、それでも所属企業からの報償もいらない…という田中氏の態度に対して好意的な記事となっています。

 こうした田中氏を好意的に見るマスコミの報道の背景には、将来の確実なノーベル賞候補とまで言われる、青色ダイオードの発明者、中村修二氏の見せたスタンスがあります。現在は日亜科学を退職してカリフォルニア大学サンタバーバラ校の教授となった中村修二氏は、開発当時に勤めていた徳島県の日亜化学工業に報酬として20億円の支払いを求めています。裁判で中村教授は、仕事上の開発であっても特許の権利は会社ではなく、個人にあると主張しました。一方、会社側は権利は会社にあるとして、訴えを棄却するよう裁判所に求めました。
 さらに先日、元味の素中央研究所プロセス開発研究所長、成瀬昌芳氏が、人工甘味料「アスパルテーム」を大量に製造する製法に関して、「このうち少なくとも100億円を超す譲渡対価を受ける権利を持っている」と主張して裁判を起こしました。  どうもこの中村氏や成瀬氏の行動は、こうした訴訟が続出することを恐れる企業側だけでなく、一般の人からは「強欲」な行動のように見えるようです。
 私は、そうは思いません。中村氏の所属していた日亜化学は、今後100年間は青色ダイオードだけで食べていけるほどの莫大な収入を得ました。こうした状況に対して、中村氏の在社時代の待遇はあまりにもひどいもの。中村氏の要求は当然と考えいます。それ以上に、「企業内における個人の働きを認め、正当な報酬で報いること」は、世界の趨勢です。

 私は「個人が主張しないこと」「企業に対する不必要なほどの帰属意識」は、「個性のないサラリーマン集団」を生み出し、結果的に日本の産業を衰退させた大きな要因ともなったと思っています。また、雪印や日本ハムに見られるような、価値観の基準を「企業への貢献」だけに置く「倫理観のない企業人間」も大量に生み出しました。そして、没個性社会である「つまらない日本」を作った要因…だとも思います
 ノーベル賞受賞後の田中氏の対応が過大に報道されればされるほど、「滅私奉公することにアイデンティティを見出してきた没個性のサラリーマン」が、本来ネガティブな自分の立場を再確認する役割を果たしているのでは…と危惧します。これでは、日本は変わりません。個人が自分の立場をきちんと主張する社会こそ、私は望ましいと考えています。
 田中耕一氏が「奢り高ぶることのない人柄」「欲のない人柄」であることは疑いません。でも、「昇進を拒否してきたこと」「受賞を機の昇進についても消極的なこと」、「受賞後もサラリーマンを続けること」…を、何か「日本人の美徳」のように報道し続けることには、非常に大きな違和感を覚えます。

 田中氏がヘラヘラと笑いながら見せる「昇進に伴う責任を放棄する」姿勢や、「ことさらに自分を普通の人間と言い続ける姿勢」…などを見ていると、少なからず苛立つ私です。

2002/10/22

 デニス・レヘイン「雨に祈りを」(角川文庫)を読了しました。デニス・レヘインの作品は、絶対に面白いはず…と期待させて、それを裏切らないのですからたいしたものです。
 「スコッチに涙を託して」から始まったワシントンの私立探偵パトリック・ケンジーとアンジー・ジェナーロを主人公とするこのシリーズも本作で5作目。前作の「愛しきものはすべて去りゆく」が少しテンションが落ちていると感じましたが、本作は絶品に仕上がっています。前作で別れたパトリックとアンジーは縒りを戻し、2人の幼馴染であるブッパも本作ではいつもより出番が多く、獅子奮迅の活躍をします。
 詳しくは書けませんが、今回の相手は元米軍特殊部隊兵士という設定になっているので、いつにも増して壮絶なアクションが展開し、いつも通りパトリックはボロボロになります。またサイコ・ミステリーと呼んでもいいほど、異常な人間がたくさん登場し、そうした面では従来作品とは趣を異にする部分もあります。何はともあれ、是非ご一読下さい。

 服が欲しい…、定期的な衝動です。昨夜は夜中にネット通販をしようと、米国のサイトをうろうろ。REIのアウトレットサイトでマウンテンパーカを1着とクライミングパンツ、そしてTシャツを数枚お買い上げ。次いで、仕事用のシャツとネクタイを探しにPAUL FREDRICKのサイトへ。珍しくBDではないノーマルカラーのシャツを2枚とネクタイを2本買いました。
 こうして通販で購入するのも好きですが、本当はやはりお店へ行って買いたいものです。今週の週末は、洋服を買出しに出かけるつもりです。

 今日の画像は、「A5301T」で撮影した犬です。メール添付サイズを、さらにトリミングしました。夜のスーパーマーケットの入り口付近で撮影したものです。手ブレはしていますが、暗い照明下にも関わらず、まあよく写っています。
 ここ数日は、「A5301T」で静止画や動画を撮りまくっています。暗い照明下の居酒屋でもよく写るし、PCモードの640×480dotの画像は、ちょっとした旅行記録程度なら十分に使える水準の画像です。下手な30万画素クラスのトイデジカメよりは上…という感じで、これはもう「デジカメ」として十分に使えます。8コマ/秒のMPEG-4動画も悪くありません。実に面白いカメラです。
 近日中に撮影画像をまとめて、インプレッションを報告する予定です。

2002/10/20

 先だって購入した東芝のau端末「A5301T」を眺めていると、携帯電話の将来の姿が見えます。キャリアや方式の問題を無視すれば、機能面での近未来像がかなりはっきりと見えてきました。
 基本は、ブラウザの高度化、静止画・動画撮影機能の高度化、外部メモリ/外部インタフェースの標準化、Javaの高機能化、液晶の高解像度化、GPSの標準搭載、音源のさらなる高度化…等々です。
 まずは液晶モニタ。例えば東芝のau端末「A5301T」は2.1インチTFT、176×144ピクセル、26万色というスペック、iモードでは1.9型TFTで176×132ピクセルですが、これが来年には、2インチで240×180dot程度あたりまでは標準となりそうです。むろん、液晶パネルにドライバやコントローラなどを集積した「システム液晶」が主流となるはずです。
 搭載するカメラは間もなくMEGAピクセルCCD搭載機が出てくるでしょう。2年以内に80〜130万画素あたりが標準となるかもしれません。モノによってはAF機構の搭載も期待できます。ムービーはMPEG-4かH261が標準となり、強力なエンコードエンジンが搭載されるでしょう。
 外部メモリはやはりSDカードでしょうか? USB2.0の搭載も近いでしょうね。
 GPSは、auもドコモも採用する「SnapTrck方式」が標準化されそうですが、その上に自立測位機能の搭載も普及する可能性があります。
 一部機種では、IP電話への対応も進むでしょう。現行の携帯電話基地局を利用したIP電話ならなおよいのですが、当面は現行の音声通話網にプラスする形で無線LANへの対応機能を搭載してくるでしょう。
 こうなると、Javaもいいのですが、いっそのことLinuxでも搭載してくれないかなぁ…と思います(笑)

 でも、全部がこんな端末になったら、ちょっと面白くないですね。例えばヨーロッパのGSM端末は、小型でシンプルな機種に人気が集中しています。音声通話をメインとした用途なら、やはり端末サイズは小さければ小さいほどいい。私は「端末が小さい」という理由だけで、つい先日までドコモの最小ストレート端末「P210」を愛用していました。音声がメインでEメールが使える掌に入るぐらいの小型端末…という路線はぜひ残して頂きたいと思います。

 それにしても、3G携帯ではドコモは惨敗しましたね。これから巻き返すそうですから、「惨敗した」と過去形で語っちゃマズイのでしょうが、WCDMAはある面で時代遅れの3G方式、合理性のないFOMAはもうダメポ…です(笑)。今からでも遅くないのでcdmaに路線変更した方がよいかもしれません。2G携帯分野でも、PDCを採用するドコモは世界の孤児です。やはり世界的なシェアで見ればGSMを無視はできないはず。ヨーロッパよりも、中国を含むアジア太平洋地域での普及の勢いがすごいです。
 ドコモの戦略としては欧州で早急に3G普及に成功すれば、GSMは無視する方針でしょうが、このまま行けば欧州ではまずWCDMAの普及はあり得ません。そうなると、下手をするとPDCとのWCDMAのデュアルモードではなく、GSMとWCDMAのデュアルモード端末を出さざるを得なくなるでしょう。これってJフォンの戦略と一緒でしたっけ?
 韓国では、CDMA方式の通信網でGSM方式の利用者のローミングを可能にするという課題に取り組み、韓国内でフル・ローミング可能な専用端末(携帯電話機)を開発しています。
 私は基本的には3Gはcdmaで行き、必要に応じてGSMとのローミング端末を供給する…というのが最も自然な流れだと思いますが。このまま行くとドコモは」ますます世界から孤立しそうです。
 とは言うものの、iモードの契約者数が3500万を突破し、世界最大のISPであるAOLと肩を並べたとのこと。日本国内に限って言えば、iモードというインフラを持つドコモを侮っちゃいけません。今後ドコモは、iモードを個人認証端末として使う、様々なアプリを立て続けに投入してくるでしょう。でも携帯電話ユーザーにとっては、世界から孤立しているドコモが、絶対的なインフラになっている日本という国に住んでいるのが、ある意味で不幸かも…です。

 私はいろいろ考えた結果、「A5301T」購入を機に携帯電話環境をauに移行するかもしれません。

2002/10/19

 仕事となると、実力もないくせにいろいろな分野に興味を持ち、何にでも首を突っ込むので、様々な人と知り合います。ハード/ソフトを含めたコンピュータ業界関係、デジカメ関係、雑誌・マスコミ関係、音楽関係…等々。まあ「人脈」というと大げさですが、「お知り合い関係」みたいなものです。そんな様々な分野のお知り合い関係の中で、最近「池袋西口関係」みたいなものがあるのでは?…と思うようになりました。
 私はフリーランスであった20代から、もう15年以上池袋にオフィスを構えています。しかも西口です。
 毎日のように池袋の西口で食事をしたり、お店で打ち合わせをしたり、仕事仲間と飲みに行ったりしているうちに、いろいろな方々と知り合うことができました。こうした人間関係は、いわば「ご近所付き合い」みたいなもので、特に意識したことがなかったのですが、最近では各所で関係が深まりつつあるような気がします。少し仕事絡みの話が加わったりして、まあこうした「ご近所的な人間関係」も深めると面白いかもしれないと思えてきました。
 で、私は「池袋西口」がけっこう好きです。先夜もこうした「ご近所関係」の方とお話していたのですが、池袋という街は、基本的には東口は面白くありません。池袋東口は、言ってみれば「池袋の表の顔」であり、人出は多くても街に深みがないような気がします。
 それに較べて池袋西口(北口を含む)は、風俗店や客引きが多く、ラブホテルもいっぱいあり、さらには外国人居住者も多く、猥雑な部分や多国籍な雰囲気が入り混じって「アジア」の香りがします。立教大学があって小劇場が点在し、ライブハウスもあるなど、猥雑なだけでなく、「文化」の香りもあります。

 そういえば、「池袋モンパルナス」という言葉をご存知でしょうか?昭和の初期から終戦時まで、池袋周辺にいくつもの「アトリエ村」がありました。美術を志す人たちのために多くの貸しアトリエが建ち並び、多くの芸術家が住んでいたそうです。場所は、現在の西武池袋線の椎名町から地下鉄有楽町線の要町にかけての一帯です。
 現在の池袋西口の雰囲気は、きっとこの時代から戦後の闇市の時代を経て形成されたのかもしれません。

 話は飛びますが、「池袋モンパルナス」のように、外国の地名を当てはめた地名俗称って多いですね。私は、安易で想像力がない言葉のように感じ、大嫌いです。例えば「日本アルプス」とか、「日本ライン下り」とか枚挙に暇がありません。よく似た俗称で、「日本の○○」って言うのもあります。愛知県の安城市は「日本のデンマーク」だそうです。「日本のスイス」なんてのもよく使われます。こういう地名の付け方するヤツ、バッカじゃないの…、と思うんですけど…

2002/10/18

 それにしても、auから発売された携帯電話端末、東芝「A5301T」はいいですね。31万画素のCCDを搭載、15秒のMPEG-4動画の撮影、SDメモリカードの利用、その上GPSを搭載…となると、単体のGPS内蔵デジカメとして見ても面白い。CCDを搭載した静止画も撮れるMPEG-4カメラ…として見れば、これはもうeggyに近いコンセプト。相変わらずCMOSを使っているPanasonic「D-snap SV-AV30」なんかよりも、ずっと魅力的です。
 撮影可能なMPEG-4動画が、再生に「EZプレーヤLite」が必要なamcという特殊なファイル形式ではなく、WindowsMediaPlayerで再生できるasf形式のファイルだった最高なんですが…
 静止画の画質はかなりよいみたいです。しかもGPSを使ってExif位置情報付の静止画像を撮影できます。HIBIさんのサイト「山と自然の旅」でテストをしておられますので、ぜひご覧下さい。そのHIBIさんのサイトでも紹介されていましたが、米Qualcommは、自立測位型の携帯電話用GPSチップを既に開発済みとのことです。
 これで、A5301Tに自立測位型のGPSが搭載されたら、携帯電話として使うのではなく、オフライン端末として十分に利用できる面白い端末です。小型・軽量で長時間バッテリーとTFT液晶モニタを備え、Exif位置情報付の静止画像を撮影でき、しかもMPEG-4動画カメラとして使える、さらに自立測位型のGPS端末としても利用できる、価格は2万円以下…こんな端末ができたら、私はauで購入して即解約し、そのまま携帯電話機能無しでスタンドアロン型のPDAとして使います。
 あ、別にauの携帯電話が嫌いなわけじゃありませんが、長年仕事で使ってきたドコモの番号を変更できないので…
 さて、GPSが自立測位型じゃなくとも、MPEG-4動画がamc形式でも、やっぱり魅力的な端末です。明日にでも買いにいこう…

2002/10/17

 中3女子6人、校舎内で缶酎ハイ10本飲みガラス割る…というニュースがありました。
 「…調べによると、6人は12日午後6時ごろ、市立雀宮中(宇都宮市雀の宮)の技術室の窓ガラスに石を投げつけるなどして、12枚を割った疑い。6人は、学校近くの自動販売機で350ミリリットル入りの缶酎ハイを10本買い、校舎内で飲んでいたという。女子生徒たちは、調べに対し、『酔った勢いで窓ガラスを割った。割れた音が気持ちよく、ついみんなで割ってしまった』と話しているという。同中の後藤明校長(54)は『学校の物を壊す行為は許されない。物事の善悪の判断がきちんとつけられるよう、指導を徹底していきたい』と話している…」

 あまりにアホらしい記事で、笑ってしまいました。アホらしいのは校長の話です。「物事の善悪の判断がきちんとつけられるよう指導を徹底していきたい」…と言ったって、中学校で「中学生は飲酒してはいけません」なんて教える必要はありません。そんなもの中学校の授業で指導・教育することじゃなく、家庭や社会全体で「常識」として教えるものです。こんなバカな中学生は、とっとと退学・放校処分にでもすればいいだけです。「学校で学ぶ」のではなく、別の道を見つけてあげましょう。

 頭の程度の合わせて教育のレベルに差をつける…、これは非常に重要なことだと考えます。
 以前から主張しているように、「頭がいい」(定義にはあえて触れません)ことは人間の能力のごく一面に過ぎません。足が速いこととか、絵が上手なこととと同じです。別に尊敬されるようなことではありません。逆に頭が悪いことが、差別の対象になるもむろんヘンです。でも「頭がいい」人間の能力を伸ばせば、社会に対して極めて有用です。日本の…というよりも、世界の生産性を上げるためには、「頭がいい人間」を特別に教育してその才能を伸ばした方が合理的です。そう、これは「差別」の問題ではなく「合理性」と「人類の将来」の問題です。

 そこで思うのは最近の大学の話です。全大学の60%が定員割れをしており、大学は学生を集めるのに必死です。特に「実務教育」を売り物にする大学が増えてきました。「英会話を取得して国際人を育成する」とか「パソコン教育を行ってオフィスソフトが使える人材を育てる」…バカなことを言っちゃいけません。英会話を教えたり、ワードやエクセルを教えるのは「大学」のやることじゃないと思います。
 やはり大学は「高度な学問」をするところです。そこで、大学なんて偏差値(便宜上あえて偏差値を使いますが…)60以下の大学を全部廃校にするか、少なくとも文部省の補助金をなくしちゃえばいい。
 平成14年度政府予算案によると、私立大学等経常費補助金は3,197億5,000万円、私立大学・大学院等教育研究装置施設整備費補助は193億300万円、私立大学研究設備整備費補助金は49億5,557万4千円です。合計すれば3500億円近い。ついでに国立大学の運営費用に相当する「国立学校特別会計」は、なんと約2兆7千億円です。
 私は、教育は重要だと考えますので、この予算を減らせとは言いません。偏差値60以下の大学を強制廃校にするか、一切の国費投入をやめれば、国立大学を含めて半分以上の大学が無くなるでしょう。うまくすれば数兆円は教育予算が浮く。それを使って、優秀な学生をもっと優秀に教育する方向で予算を使えばよいのです。高度な学問を理解しない人間に、学問の場を提供する必要はないし、逆に優秀な人間にはもっと高度な学問が出来る環境を整えた方が理にかなっていると考えます。
 人類の未来のためには、優秀な人材を育てることが必要でしょう。中学生にもなって「飲酒する」ような人間には、学問などやらなくとも尊厳を持って生きられるような別の道があるはずです。

 ちなみに私自身も、高度な学問を受ける資格があるかどうか怪しいものです(笑)。高校時代に学校サボってバイクを乗り回したり、山に登ったりしてました。でも今は、とりあえあずは社会でなんとか生きてます。

2002/10/16

 北朝鮮に拉致された人々が帰国され、TVも新聞もニュースはその話題一色です。これについて論評するつもりは全くありませんが、新聞を読みながら、いろいろなことを考えてしまいます。
 唐突ですが、拉致問題と言えば、「社民党」が北朝鮮労働党との関係から北朝鮮による拉致に関して長い間不自然な対応をとってきたことが、世間の大きな批判に晒されています。
 私は以前から、この社民党というのは、実におかしな価値観を持つ政党だと思っています(私は政治に全く興味がないので、この発言は私の政治的な立場を述べるものではありません)。何がおかしいかと言えば、「憲法原理主義的」な部分です。

 「社民党」のホームページには「党の基本政策」なるものが掲載されていますが、これを読むと、やたらに「日本国憲法」が登場します。例えば「社会民主党は、日本国憲法の掲げる主権在民、恒久平和、基本的人権、国際協調の理念を創造的に発展させます」…といった具合です。主権在民、恒久平和、基本的人権、国際協調の理念を守る…という諸点については基本的に賛成ですが、私がそう思うのは「日本国憲法に記載されているから」ではありません。主権在民、恒久平和、基本的人権は、社会に必要だと思っているからであり、日本国憲法は私が考える社会の価値観と「合致している」に過ぎません。

 この社民党に代表されるように、何かというと「憲法に定められているから」との理由で物事の是非を論じる人々がいますが、私にはそのメンタリティがさっぱり理解できません。
 思うに、「法治国家の善良な市民は法を守らなければならない」…という考え方は正しくありません。「善良な価値観、適切な社会観に基づいて行動する市民」というのが基本であり、「法」とは、善良な価値観、適切な社会観の最大公約数を具体的に条文化したものに過ぎません。言いたいのは、自らの価値観で判断することが重要なのであって、「法」自体を価値観の基準におくのは誤っているのです。
 世の中には「法で定められているから…」と、自らの行動規範を「法」に求める人が多いようですが、「法」を持ち出す前にまず「自らの価値観やモラル」で考えるべきなのです。「なぜ未成年は飲酒をしてはいけないのか?」という問いに対して「法律で定められているから」と答えるのはおかしなことです。「未成年の健康を害するから」と答えるべきであり、法律に定められているからいけないとか、法律で許されているから正しいとか…そういう答えには、「自分の価値感や社会観」が含まれていません。

 逆に考えると、法律なんてものは、価値観の変化に対応して変化していくべきものです。私は「憲法」という国の基本方針を定める法は、一定期間ごとに討議してその価値観が世の中の趨勢に合致しているかどうかをチェックすべきものだと考えます。憲法原理主義者であってはならないと思っているわけです。

 しかし、先ほど「法とは、善良な価値観、適切な社会観の最大公約数を具体的に条文化したもの」と書きましたが、社会の多数が信じる価値観が正しい価値観かどうか…については、当然異論があります。多数の唱える価値観が正しい…かどうか、これは非常に難しい問題です。私は民主主義の基本理念には賛同する部分もありますが、だからと言って多数決は好きではありません。では「多数決に変わる物事の決め方があるのか?」という問いに対しては、明確に答えることができません。

 拉致問題のニュースを読みながら、わけのわからないことを考えてしまいました(笑)

 今日の画像は、近頃話題の、渋谷の公園通りにある「100円讃岐うどん」店です(U10で撮影)。昼下がりのひと時、若者が50mほど行列を作って入店を待っていました。
 この店、素うどんは100円だけれど、天ぷらなどのトッピングをすると値段が高くなり、客1人あたりの平均単価は300円を越えるそうです。別に、駅の立ち食い蕎麦屋と変わらない値段です。まあ、立ち食い蕎麦屋に入るのはカッコ悪いと思う若い世代も、このおしゃれな讃岐うどん店ならOKってところでしょうか。
 確かに私も、駅や街中の立ち食い蕎麦屋に頻繁に出入りするようになったのは、30代になってからの話です。それにしても、たかが讃岐うどん店にこれほどの行列とは…わかりません…。でも、近々一度食べてみようと思ってます。

2002/10/15

 ジョニ・ミッチェル、レコーディング活動に終止符か…というニュースが流れました。それによると「…ニューアルバム発売に合わせ音楽誌「ローリング・ストーン」のインタビューに応じたミッチェルは、"ごみためのような"音楽業界に身を置いていることを恥じているとコメント。今後はレコード会社と契約する考えがないことを強調し、レコーディングを行った場合はインターネットなどでの販売を考えていることを明らかにした…」とのことです。

 ジョニ・ミッチェルのような大御所に「ごみためのような音楽界」と言われた、アメリカのレコード業界の反応は書いてありませんが、ある種痛快な話ではあります。私も、クソのようなJポップがヒットチャートをにぎわす日本の音楽界は「ごみため」だと思っています。

 さてジョニ・ミッチェルは、大好きなシンガーです。日本のCDショップなどではカントリーミュージックのシンガーに分類されたり、ひどい時にはジャズ・ボーカルに分類されたりしていますが、私はピュアなロック・ミュージシャンだと思っています。ジョニ・ミッチェルと言えば、同名のアルバムタイトルでも知られる名曲、「BOTH SIDES, NOW(青春の光と影)」を思い浮かべる人が多いかもしれません。

 デヴィッド・クロスビーのプロデュースで1968年にデビューした彼女は、その後デヴィッド・クロスビーの属するCSN&Yとの関係を深めていきます。相互に影響を与え合い、70年代の音楽シーンをリードして行きました。CSN&Yのメンバーの1人であるグレアム・ナッシュとの恋愛が話題になったこともあります。
 彼女のボーカルは「済んだ声」というのとは少し感覚が違います。抑制を効かせたよく通る声で、軽さの中に非常に説得力を持つ歌い方です。何よりもそのギターワークは素晴らしく、一時期よく真似をしたものでした。
 そういえば、ザ・バンドの「ラストワルツ」コンサートで歌っていたジョニの姿も眼に焼きついています。

 ジョニ・ミッチェルのアルバム、そして曲には印象に残るものが多過ぎて、どれがいいとは言いにくいのですが、やはり最も印象深いのは1970年に発売された3枚目のアルバム「Ladies Of The Canyon」と、そこに収められた「Woodstock」と「The Circle Game」の2曲です。
 「The Circle Game」は、いわずと知れた映画「いちご白書」のエンディングテーマで、バフィ・セントメリーによるヒットで知られています。60年代のアメリカ、CSN&Yの音楽をバックにした美しい映像、そして悲しいラスト・シーン、「いちご白書」の映像の余韻を残して流れる「The Circle Game」は、いつ聞いても素晴らしい曲です。バフィ・セントメリーのボーカルも申し分ないのですが、ジョニ・ミッチェルが歌うオリジナルは、なおいっそう心に沁みる曲です。この曲のモデルがニール・ヤング…という説は古くから流れていますが、真偽のほどはわかりません。

 ところで、バフィ・セントメリーと言えば、ネイティブ・アメリカン系のフォークシンガーとして知られています。ネイティブ・アメリカン系というよりも、純血クリーク族インディアンだそうです。映画「ソルジャー・ブルー」のテーマ曲には衝撃を受けました。  キャンディス・バーゲンが主演したこの映画は、アメリカ騎兵隊によるインディアン虐殺を描いた映画として知られています。

 話が逸れましたが、私が大好きなジョニ・ミッチェルの名前を久々に見かけた今日のニュース、薄暗い名画座で見た映画「いちご白書」に夢中になった自分の10代半ばの頃を思い出してしまいました。

2002/10/14

 上野に巨大な「テレビ塔」を建てる計画があるそうです。東京タワーより高い新タワーで、いわずと知れた地上波デジタル放送の送出用タワーです。
 この、放送界が国を巻き込んでの地上波デジタル放送への移行騒ぎほどバカバカしいものはなく、既に700億円の税金を投入してなんら採算は取れず、今後どこまで税金を投入するつもりなのか、さっぱりわかりません。総務省は、当面既存テレビ局の周波数を変更する「アナアナ変換(デジタル放送が始まると周波数が過密化し一部で今のアナログ放送と混信が起きることから、あらかじめアナログ放送の周波数を別の周波数に変えてデジタル放送用の周波数を確保する作業)」に1800億円の国費を投入する計画だそうですが、さらにその後のデジタル放送設備の拡充にいったいどれだけの費用が掛かるか不透明で、もう底無し沼のように税金が投入される様相を呈しています。
 まあ、「公共メディア」であるTV局が国と結託して、こうしてズブズブと税金を食い物にして既得権益を守ろうとしているのに、普段は国の政策に威勢よく反対する「ニュースステーション」も「ニュース23」も、一度たりともこの「地上波デジタル問題」について真剣に取り上げません。「国費で新しいメディアを作る」なんて、社会主義国じゃあるまいし…まあ、そんなことは置いておいても、TVというメディアのくだらなさについては、いまさら私がどうこう言う問題でもないですね。

 私が地上波TV放送のコンテンツで一番好きなのは、ニュースでもドラマでもなく、「CM」です。普段は帰宅するのが深夜ですから、TVと言えばニュース番組を見るくらいです。日付が変わってどのチャンネルでもニュース番組がなくなると、ケーブルでCNNを見ています。そんな私にとって、TVCMは飽きずに見ていられる唯一のコンテンツであり、商品情報や世の中のトレンドを知るための大切な情報源です。
 例え速い時間に帰宅したとしても、バラエティ番組やTVドラマは全く見ないですね。最近の連続ドラマで、かなりの頻度で見ているのは、日曜日の午前中にテレビ東京でやっている「刑事ナッシュ・ブリッジズ」の再放送ぐらいかなぁ。
 そんなつまらないTVですが、けっこう地味でよい番組もあります。
 毎週土曜日の夜10:00〜10:30に、テレビ東京で「美の巨人たち」という番組をやっています。私はこの番組が割と好きです。先週末には「ジョージア・オキーフ」を特集していました。彼女の代表作の1つである「牡羊の頭」という作品を中心に、40代以降をニューメキシコの砂漠で暮らしたオキーフの生涯を、独特の切り口で語っており、時代背景を説明するためのアメリカの田舎町のカフェを舞台にした安っぽいドラマもなかなか面白く、おもわず見入ってしまいました。
 私はこのオキーフの「牡羊の頭」という絵が昔から気になっており、つい最近になってニューヨークのブルックリン・ミュージアムに常設展示してあることを知りました。それで2年前の冬に、ブルックリン・ミュージアムまでこの作品を見に行きました。冬の昼下がり、人気のない午前中の美術館で、自然光の入るガランとした広い部屋の中に、その絵は飾ってありました。何とも、印象的なひと時でした。
 オキーフと並んで大好きな20世紀のアメリカの画家に、エドワード・ホッパーがいます。彼の作品「ナイト・ホークス」(これもこの番組で取り挙げられたことがあります)も気になる絵の1枚でした。そういえばこの「ナイト・ホークス」も、十年ほど前にわざわざシカゴ美術館まで見に行きました。

 テレビ東京「美の巨人たち」、時々くだらない展開の時もありますが、できれば長く続けて欲しい番組です。

2002/10/12

 昨日私は、携帯電話の機種変更をするためにドコモショップに行きました。機種を指定しるとすぐに製品を持ってきて、店員が新品の本体を箱から取り出し、「よく検品してください」と言うのです。「まだ繋がっていないのに何を見るのですか?」と聞いたら、「細かい傷や汚れがないか良く見てください」というのです。次に、10分ほどして電話番号の移行が終わり、手渡す段階でまたしても、「画面表示をよくご確認下さい」と言われました。
 あまりしつこく言うので、「どうしてそんなにしつこく製品を確認させるんだ?」と聞いたら、受け取った後からのクレームが多いのだそうです。液晶のドット欠けや、本体に付いた細かい傷を理由に、何度も返品交換を申し出る人が非常に多いとのことです。  むろん私だって、目の前でドット欠けのある製品とない製品のどっちかを選べと言われれば、ドット欠けのない製品を選びます。でも買って帰ってきてから何かの拍子でドット欠けを見つけても、別に気にしないでしょうね。
 携帯電話やデジカメの液晶のドット欠けなんて、私は気にしたこともないですね。だって、携帯電話の液晶のドットが1つ欠けていたっておそらく私は気付かないし、気付いても、本質的な機能に関係がない部分はどうでもいいと思っちゃいます。
 でも、現実には携帯電話の液晶のドット欠けぐらいで交換を申し出るユーザーが多いとのこと、ちょっと信じられないと思いました。
 ところが昨夜、何となく価格comの掲示板を見ていたら、デジカメの掲示板で「ドット欠け」に関する質問がたくさんあるのを発見しました。「液晶モニタにドット欠けがあるのですが交換してもらえるでしょうか?」という質問がたくさんあるのです。もしやと思って携帯電話の掲示板を見たら、やはり同じような質問がたくさんあります。いや、ドット欠けを気にしている人がすごく多いのに驚きました。

 液晶は、製造工程上の問題から一定の割合でドット欠けが生じるのはやむを得ないものであり、それを許容しなければ製品の歩留まりが極端に悪くなってしまいます。「機能上問題のないドット欠けを許容する」という世の中のコンセンサスを前提に生産しないと、製造コストが跳ね上がってしまい、とても今の製品原価は維持できないでしょう。ドット欠けを気にするのもよいのですが、「ドット欠けのない液晶」を求めるのなら、その分製品コストがアップすることを覚悟しなければなりません。
 液晶にドット欠けがないことを求める人は、その分製品の価格が高くなってもよいというのでしょうか? デジカメでも携帯電話でも、製品原価に占める液晶モニタ部の占める割合はかなり高く、仮に液晶の原価が2倍になると、製品全体の原価が10%以上アップする可能性があります。販売価格は30%ぐらいアップするかもしれません。従って「ドット欠けのない液晶が欲しい」と言うユーザーは、相当な製品価格のアップを覚悟しなければならないのです。
 ならば、いっそのこと、こうしたらどうでしょう。ドット欠けのないことを保証するユーザーに対しては、製品販売価格を相当にアップした上で交換に応じるのです。こうすれば、現行の製造工程を変えることなく、ドット欠けを気にするユーザーと気にしないユーザーの両者が納得できる体制になります。

 まあ、先に書いたように、携帯電話たデジカメの液晶モニタのドットが1つ欠けていたって本質的な機能には関係がありません。製品コストが下がることを歓迎する意味でも、あまり気にしない方がよさそうです。

2002/10/10

 昨日の「愛国心」ネタの続きと言うわけではないのですが…
 私は海外での生活経験があったり海外旅行が好きなことなどもあって、「自分は日本人である」という自覚は人一倍強く持っている方だと思います。とりわけ仕事やレジャーでアジア諸国を訪問する時には、近世史から現代史における日本と該当国との関係(特に昭和に入ってからの戦争を巡る事実)に深く思いを馳せずにはいられません。

 それにしても、アジア地域を別にすれば、海外、特に欧米においては自分が意識するほど日本人を日本人として意識してくれません。たいていの場合は、中国人、韓国人と一緒に「アジア系」で一まとめに括られてしまいます。
 思い起こせば、私が1970年代、80年代にニューヨークで生活していた頃、初対面の人に「日本人」と見られたことは一度もありません。現在はニューヨークに5万人近い邦人が居住しているそうですが、1970年代後半には2千人程度でした。それに較べて、在ニューヨークの中国人は当時でも10万人以上。というわけで、私はほぼ100%中国人と見られ、ごく稀に韓国人と見られました。通った学校ですら、初対面の相手に「私は日本人」と言うと、けっこう驚かれたものです。
 もっと面白かったのは、アメリカの教育水準が中クラス(ハイスクール卒業程度)、生活水準がミドルクラス以下の人たちの80〜90%は、日本という国の名前は知っていても、日本という国が正確にどこにあるかを知らず、ましてや日本の文化についてなど、非常にいいかげんなことしか知らないという事実です。アメリカ人で地理的・文化的に中国と日本と韓国を混同している人は非常に多く、私が「Tokyoに住んでいる」と自己紹介すると、「Tokyoなら知っている。たしかBeijin(北京)の隣にあるCityだ…」なんて返事が返ってきたりしてました。ミドルクラス以下のアメリカ人で、日本と韓国と中国の正確な位置関係や日本が島国であることなどを知っている人はあまりにも少なく、日本について詳しいのはベトナム戦争の時に沖縄や横須賀や三沢に駐留した経験を持つ元軍人ぐらいのものでした。アメリカ人にとって日本は、世界地図上での位置を正確に指摘できない…国です。

 でも、欧米で日本人が中国人、韓国人と一緒に見られ、しかもその位置関係をほとんどの人が知らない…という現実については、当然と言えば当然です。逆を考えるとよくわかります。日本人だって、一般的には海外のことをあまりにも知りません。
 例えば国境線だけが描かれた白地図の世界地図上でベルギーとオランダの場所を正確に指摘できる人、ポーランドとハンガリーの場所を正確に指摘できる人…非常に少ないと思います。アメリカ大陸でも、ニカラグアとコスタリカの位置を指摘できる人は少ないと思います。

 もう1つ、面白いことがあります。韓国を嫌い韓国人を悪し様に言う日本人は多いのですが、欧米の言語圏に属する人は、基本的に日本語と韓国語の区別はつきません。欧米の言語圏に属する人の耳から入ってくると、韓国語と日本語はアクセントや音節などがそっくり同じに聞こえるそうです。
 また、韓国語と日本語の違いを言っても、しょせんは同じ地域で話されている言葉の「方言の違い」程度と認識している人も多いようです。第一、東南アジアでどんな言語が話されているか…なんて、欧米人は知らないし興味も持ちません。
 でも、これもまた当たり前の話です。例えば、日本人でベルギーで話されている言語が何かを知っている人は少ないと思います。ベルギーは北半分がオランダ語、南半分がフランス語、ドイツと国境接する一部地域を中心にドイツ語が話されています。列車でわずか30分ちょっとの距離にあるブリュッセルとアントワープでは、日常使われる言語が全く異なります。ブリュッセルの駅構内では表示もアナウンスも全てがフランス語で、切符もフランス語で印刷されています。そこから30分ちょっと列車に乗ってアントワープ駅に降り立つと、駅構内の表示もアナウンスもオランダ語に変わります。
 日本人が、こんなベルギーの言語状況を知らなくても当たり前といえば、当たり前です。でも、同じように欧米の人間は日本と韓国と中国で話されている言語の違いなど、気にもしません。

 欧米においては、自分は「日本人」であると意識するよりも「アジア人」「東洋人」と意識する方がずっと多いことは確かです。これは、「非白人」と言い換えてもよいかもしれません。
 この話は以前にも書いたことがありますが、私は1970年代の後半にアメリカをグレイハウンドバスで貧乏旅行していた時、イヤと言うほど「差別」を受けました。特に南部はひどかった。レストランに入って席に座り、何回声を掛けても無視され続けたことは何度もあります。それどころか、空席があるレストランに入れてもらえなかったこともありました。テキサスでは不法移民を取り締まるためにバスに乗り込んできた州警察官に、安全装置を外した拳銃を突きつけられながらパスポートを見せろと要求されました。
 こうした差別を受けた理由は、自分が「非白人」であるからです。アメリカ人の多くは、大雑把に言って、アングロサクソン系白人→ラテン系白人→黒人→ヒスパニック→東洋人(韓国、中国、日本人、ベトナム人等)…という順で、社会的なステータスが低いと思っていますし、事実この順で差別がひどくなります(これは自分の体験に基づくものであり、異なる経験をお持ちの方もいるかもしれません)。

 結局のところ、言いたかったのは、日本人なんて世界から見たら「こんなもの」という事実です。同じアジアの中で韓国・朝鮮が好きだの嫌いだのといっても、欧米から見れば日本人と韓国人はおなじようなものです。
 観光旅行でお金をバラ撒いている限り、日本人は概ね歓迎されます。また、ビジネスで日本人から利益を得ようという部分でも、やはり日本人は歓迎されます。しかし、1人の人間として住めば、欧米からは相変わらず「イエロー」として他のアジア人と一括りで見られる方が一般的だし、白人社会からは明確な差別意識を向けられ、アジアの一部では第二次大戦時の行動を前提に白い眼で見られます。
 まあ、「日本人としてアイデンティティ」を求めるのも結構ですが、それ以前に「世界における日本という国のポジション」についてもっとよく知っておいた方がよいかもしれません。

2002/10/9

 「愛国心」を3段階評価 福岡市69校 小6通知表に項目…というニュースには、かなり驚きました。「愛国心」というヤツだけでも理解できないのに、それにランクを付けるとは、いったいどんな尺度を使うのでしょう。

 どうも私は「愛国心」というヤツが理解できない。…いや、マジメな話、実感できないのです。「愛国心」なるものが「どんな気持ち」なのかよくわからないのです。「女性を愛する」とか「子供を愛する」という気持ちなら、よくわかりますが…
 で、逆に「愛国心」なるものを持っている方に聞きたいのですが、「国を愛する心」というのは、具体的にいったいどういうものなのでしょうか? 愛する対象の「国」というのは、何を指して言っているのでしょう?
 「国」とは「国家」です。国を愛している人にとって、「国」なるものはどのように定義されているのでしょうか。「国家の定義」は非常に難しいものです。国家を定義しようとした学術書なら、歴史学、社会学、政治学など様々な視点から見た何百冊もの名著がキラ星のごとく並んでいます。プラトン「国家論」あたりから始まり、中世以降ではホッブズ、ロック、ルソーなどの各著作、そしてマキャベリ「君主論」あたりが有名どころですね。近世に入るとヘーゲルに始まり、エンゲルス「家族・私有財産及び国家の起源」あたりも重要です。さらにアダム・スミスやマックス・ウェーバーも必読でしょう。新しいところではベネディクト・アンダーソン「想像の共同体」あたりも面白いかも、です(著者名、著作名、時代等に誤りがある可能性があります)。
 人類史上で国家の定義がこれほどに議論されている中で「国を愛する」と言われても、その人が「国」をどう捉えているかによって、「国」の何を愛しているのかは変わります。愛国者を自称する人で、この点について詳しく説明してくれる人はほとんどいません。

 まあ、難しい話を抜きにしても「国家」というのは「ある種の権力機構(言い方が悪ければ統治システム)」ということは間違いありません。そうなると、国家を愛しているという人たちは、その「統治システム」自体を愛しているということでしょうか? 要するに日本国憲法や日本の国会や官僚機構がを愛しているのでしょうか? 私は女性は愛せますが、「おバカな官僚」や「むさ苦しい顔をした国会議員」は絶対に愛せません(笑) おまけに私は改憲論者で(この点はウヨクかもです)、日本国憲法を愛してはいません。
 では、「日の丸を愛する」ことが国家を愛することなのでしょうか?ってことは、白い長方形の中に赤い丸がある図柄を愛しているのでしょうか? だとすれば同じような図柄の国旗を持つ国があったら、そこを愛するのでしょうか? 第一、国旗の図柄が問題なのなら、色神異常に代表される視覚障害者は愛国者にはなれません。「君が代」の旋律を愛しているのが愛国者ならば、聴覚障害者は愛国者にはなれません。ちなみに私は、「君が代」よりもパンクロックの方が好きです。

 日本の気候風土を愛している…というのならばよくわかります。私も日本の風土や食事を非常に愛しています。でも、全く同じ気候風土と食事を持つ国が他にあれば、どうするのでしょうか。そんなこと以前に、ハンバーガーやカレーライスやピザが好きな人は、愛国者ではないということになります。
 「日本の文化」を愛している…などと言われると、ますますわからなくなります。「日本の文化」って何ですか? まさか「茶道」「華道」あたりを日本文化とは言わないでしょうね。あんなもの平安時代の没落貴族が無理やり作り出した「作法」に過ぎません。庶民の文化とは無関係です。「能」「狂言」だって、いつも見て楽しんでいる人が国民の何パーセントいるか考えれば、「文化」とは言えないでしょう。
 「長幼の序」や「謙譲の美徳」などの人間関係こそが日本の文化の真髄…、という人もいるかもしれません。でもこうした文化は、中国や朝鮮から伝わっていた儒教思想によるものです。日本の固有の文化ではりません。だいたい、「親や年長者を大切にする」「家族を大切にする」ことに関しては、現代においては韓国や中国の方がはるかに上です。

 …って、こんな話を書いていると「非国民」だの「サヨク」だのというメールが来そうなので、ここらでやめときます(笑) いずれにしても、「教育現場で愛国心を3段階評価」とは、ずいぶん無茶なことをやるものです。

 今日の画像も、旅先で撮影した恋人同士の画像です(CP2500で撮影)。
 「オマエはデジカメでこんなクソ画像ばかり撮影しているのか?」という非難は甘んじて受けます(笑) 事実、私はロクな写真を撮りません。
 でも、バカ高い一眼レフ型デジカメを使って「海に沈む夕陽」の画像を撮り、それに「落日」なんてタイトルを付けてホームページでうれしげに公開している方よりはマシ…と思ってます。…あ、また他人に嫌われるような余計なことを書いてしまいました。こうやって、「敵」が増えていくようです。そのうち、このサイトを訪問する人がいなくなることは確実です(笑)

2002/10/8

 私が見るところ、世の中には「壜派」と「缶派」がいます…、って何のこっちゃ? 要するに「ガラス壜が好きな人」と「ブリキ缶が好きな人」がいるってことです。
 壜好きな人はかなり多く、部屋にきれいな壜を飾るためのアンティークの壜専門店なんかもあるし、壜拾いを趣味にしている人も多いそうです。
 私はどちらかというと缶派で、ブリキ缶が大好きです。缶に入っているクッキーをもらうと、食べた後の缶を捨てられません。特にヨックモックやチョコレートなどが入っている小さめの缶は、絶対に捨てられないのです。食べた後の浅田飴の缶も、机の引き出しにしまってあります。コーヒー豆の入っている缶は、きれいな色のものは使った後もとっておきます。
 缶を使った商品パッケージが好きな人は多いでしょう。化粧品などでも缶入りがよくありますね。私は「缶入り」の商品は、基本的に「買い」だと思ってます。トイデジカメでもCheez!SPYZなんかは、パッケージが缶というだけで買っちゃいました。私は一頃、きれいな缶に入ってるって理由だけでFOSSILのウォッチをたくさん購入しました。CPUもそうです。Athlonのパッケージが缶入りになったら急に欲しくなり、Athlonマシンを何台か組立てました(笑)。缶好きの心理に付けこんだマーケット戦略に、まんまとしてやられているわけですが、こういう単純な消費行動をとる自分が好きです(笑)
 缶ビールは最近つまらなくなりましたが、15年ほど前にいろんな缶がブームになったことがあって、当時の樽型の缶ビールの空き缶などを今でもとってあります。
 こうして集まった缶は、別に何に使うというわけじゃないので、そのまま周囲に転がってます。こうして身辺にはゴミが溜まっていくわけです。

 ところで「アキバに影響大?立て看板にも制限のポイ捨て禁止条例が施行」という記事を読んで、ちょっと考えてしまいました。
 路上喫煙の禁止とポイ捨ての禁止には異存はありません。問題は「街の美観」を目的とした立て看板やポスターの禁止条項です。歩道上に無造作に並べられた看板が身障者が乗る車椅子や盲人の通行等の邪魔になっていることは十分に承知しています。しかし、ご存知の通り、裏通りに立ち並ぶPCショップの立て看板やポスターは秋葉原の風物詩とも言えるもので、これを排除するとなると、秋葉原独特の「風情」がなくなるような気がします。さらに、「何人も、善良な風俗を害し青少年に悪影響を及ぼす活動を行い、その活動に関し広告物の掲出、チラシ、パンフレット等の配布等を行ってはならない」という条項は、もっと気になるところです。私は活気のある街にはある種の「猥雑さ」が必要だと思います。
 例えば80年代前半頃までのニューヨークの街は、至るところに猥雑な雰囲気が漂っていました。タイムズスクエア近辺の42'nd Stや8th Avにはポルノショップやポルノ映画館が立ち並んでいましたし、街角の至るところにコールガールやドラッグ売りがたむろしていました。ゲイの街であるウェストビレッジやイーストビレッジの一部も怪しげなポスターなどが並んで猥雑な雰囲気が濃厚でした。それが、世界中から観光客を誘致するためのI Love MewYorkキャンペーンが始まった80年代半ばからの大規模な美化運動の中で、ポルノショップやコールガールは表通りからほぼ一掃され、きれいで整然とした街並みへと変貌を遂げました。90年代に入って確かに街路はきれいで安全にはなったけれど、ニューヨークという都市が持つ独特の魅力もなくなったと思うのです。
 東京の新宿や池袋、そして福岡の中洲や札幌のススキノなどはむろん、パリのモンマルトル、香港の湾仔、バンコクのスクインビットなど、世界のどこの都市でも、人が集まる魅力のある街には、どことなく猥雑な雰囲気が漂っているものです。そして私は、そうした街が好きです。
 街をきれいにする…、よいことかもしれませんが、きれいにし過ぎると街の魅力もなくなるかもしれません。

2002/10/7

 しばらく、海外に行ってました。少し仕事もありましたが、後半は何もせずに遊んでいました。この「愚にもつかない駄文」を時々読んで頂いているごくわずかな皆さま(笑)には、久しぶりのご挨拶です。

 今回の旅もそうですが、現在の私の旅の基本スタイルは、次のようなものです。

・ともかく旅は海外へ行く
   日常生活の場から離れれば離れる方がよいので、基本的には旅をしたくなると海外へ行きます。
・人が多いところへ行く
   私は登山などアウトドアが好きですが、アウトドアへ出るのはあくまで「遊ぶ」ことが目的。ドロップアウトするための旅は、大自然の中ではなく都会じゃなきゃダメです。
・公共交通機関の充実している街
   移動には、レンタカーを使わないのが基本。コミュニケーションが少なくなるからです。当然、訪問先は都市部に限定されます。
・ホテルは安いほどいいが最小限の快適性は必要
   ヨーロッパで言うところの「2つ星」程度のホテルが快適です。裏通りにある小さなホテルを探します。いくら狭くても構いませんが、適度に清潔で、大きなベッドとエアコンとシャワールームとTVは必要です。近所に、安くてうまいメシ屋とビールが飲める店があることも重要です。
・行動領域は場末の方がいい
   場末の定義にもよりますが、別にスラム街が好きなわけじゃなく、猥雑なイメージがある場所が好きです。まあどこの国にも「池袋西口ラブホテル街」のような場所はあります。
・食べ物は好きなものしか食べない
   「その土地のものを何でも食べる」という趣味はありません。高級レストランなんかにはまず行きませんが、自分の口に合うものしか食べません。食べ物が口に合わない場所は、二度と行きません。
・旅は1人か、女性と2人連れのどちらか
   海外の街を歩いていると日本人をよく見かけますが、団体旅行客以外では、複数の女性のグループ、または複数の男性のグループが多いですね。私はダメです。「路上」のジャック・ケルアックは友人のニール・キャサディと旅をしましたが、男同士でもこうした旅ならカッコいいかも。でも、私にはそんなカッコいい旅はできないので1人じゃないときには女性と旅に出ます。
・本を読まない
   読書狂、活字中毒の私が日常生活から離れるためには、仕事をしないことよりも本を読まないことの方が重要です。

 「旅とは漂泊の感情」と言ったのは確か哲学者の三木清だったと思いますが、私にとっての旅はそんな洒落たものではありません。「ドロップ・アウト」すなわち「脱落」が目的です。「一抜けた!」と言いながら歩くのです。いったい何からドロップアウトするのか…と問われれば「日常から」というのが最も正しいのでしょう。でも、「日常」という言葉では曖昧過ぎるかもしれません。つまり、自分の人生を支えている根幹の部分、すなわち「メシを食うために働く」「社会的なポジションを維持する」「常識的な生活をする」というような部分からドロップアウトするわけです。仕事や人間関係、家族や友人、社会的な存在意味といったものから逃げる…というのではなく、そうしたものすべてを「大切な存在と思わなくなる」…という状況に自分を持っていくのが、私の旅です。
 別に大げさな話ではありません。第一、1週間やそこいらですから「擬似ドロップアウト」または「プチ・ドロップアウト」とでも言うべきでしょう(笑)。しかし私の場合は、飛行機に乗ったとたん、頭のどこかが「プチッ」と切れるのは確かです。旅に出たとたん、「もう何がどうなってもいいや…」という「ブチ切れモード」にすんなりと入れるのです。
 もっとも、生命の危険がある場所でも平気で歩く…というわけじゃありません。「トラブルを恐れなくなる」というのが、一番近い感覚でしょうか。要するに、ホテルや滞在都市の移動などの急な予定変更はむろん、入りたい店に入る、食べたいものを食べる、話したい相手と話す…など、その時その時に「やりたい」と思ったことを後先を考えずに何でもやっちゃうのです。ただし、身の危険には留意します。というよりも、「危険から身を守る」というのは私の特技であり、これは「インテリは痛みに弱い」ところから来ることは確かです(自分のことをインテリと呼ぶのは、むろん卑下しての言葉です…笑)。要するに、お金やパスポートを取られたりするのは構わないのですが刺されたり撃たれたりするのは、「痛いから嫌い」です。こうした状況を本能的に避けるのは、人生の特技です。  ドロップアウトする旅は、「目的がない」ことが最も重要です。「見聞」にせよ「観光」にせよ「食べ歩き」にせよ、そんな目的は全くなく、従って観光名所などにはまず行きません。旅先では、食べたい、飲みたい、歩きたい、誰かと話したい…といった本能に身を任せます。
 どの国へ行っても、ビールを飲みながら街を歩く…というのが基本的なパターンであり、今回も某国の某首都で、昼も夜も場末のブラッセリーを片っ端から回ってビールを飲みながら、ぼんやりと人物観察をしていました。

 こうした旅のスタイルは、ジャック・ケルアックの「路上」の影響を大きく受けていることは確かで、十代の後半に日本のあちこちをバイクで旅していた頃と、メンタルな部分は同じです。

 今日は、その旅先の画像を1枚アップします。かわいい女の子がいっぱいいる街でした。また、明るい日差しの中を、恋人同士が楽しそうに歩いていました。そんな1組のカップルを、謹んで撮らせて頂きました(CP2500)。
 ちなみに、デジカメは持って行きましたが、飲んでるビールの画像やら、ブラッセリーで隣に座ったオネーサンの笑顔やら、キスしてるカップルやら、切符の検札に来た車掌さんやら、道端のネコやら…そんな画像ばかり撮影してきましたので、「まともな風景画像」はほとんどありません(笑)。いつものことです。



Email Webmaster if your incur problems.• Copyright © 2001 yama. ALL RIGHTS RESERVED. Since 2001.1.22

※ 当サイトは Internet Explorer6.0 に最適化されています。